発達障がいについて
「発達障害(神経発達症群)」とは
「発達障害」とは、
「自閉症、アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害、学習障害(LD)、注意欠陥/ 多動性障害(ADHD)その他これに類する脳機能の障害であって、その症状が通常低年齢において発現するもの」
また、「てんかんなどの中枢神経系の疾患、脳外傷や脳血管障害の後遺症が、上記の障害を伴うものである場合においても、法の対象とするものである」とされています。
診断における『発達障害』というものはなく、少し前ならば「広汎性発達障害」、新しい診断では『自閉症スペクトラム症』『自閉症スペクトラム障害』となるのでしょうか。
まず、これらの障がいは
生まれつきの特性で、「病気」ではありません。
「本人の努力不足」や「親のしつけの問題」などで発症するものではありません。
この障がいはいくつかのタイプに分類されており、自閉症、アスペルガー症候群、注意欠如・多動性障害(ADHD)、学習障害、チック障害などが含まれます。
これらは、生まれつき脳の一部の機能に障がい(変異)があるという点が共通しています。同じ人に、次に示すいくつかのタイプの発達障害があることも珍しくなく、そのため、同じ障害がある人同士でもまったく似ていないように見えることがあります。
〇自閉スペクトラム症(ASD)とは
以前の国際的診断基準の診断カテゴリーである広汎性発達障害(PDD)とほぼ同じ群を指しており、自閉症、アスペルガー症候群、そのほかの広汎性発達障害が含まれます。DSM-Ⅳまでは自閉症を含む広汎性発達障害の言動・人間関係・コミュニケーションの特徴として、イギリスの女性精神科医ローナ・ウィング(Lorna Wing, 1928-)の『ウィングの3つ組(三徴候)』が上げられていましたが、
ウィングの3つ組(三徴候)とは 目の前に現実にはない事柄(もの・情報・可能性など)について頭の中で操作する能力がイマジネーションです。定型発達(一般的な発達)の子どもたちはイマジネーションを発達させることで、自分の予想していた事柄と予想外の現実との間にも共通項を見出して「そいういうのもありだな」と思ったり、その展開に至った事情を推測して納得したり、思いがけない展開の落ち着く先を予測して安心したりできる能力を獲得していきます。つまり、急な変更でも安心・納得したり予想のつかない今後を楽しんだりできるのはイマジネーションのおかげなのです。 |
DSM-5を用いて自閉症スペクトラムを評価して診断する時には、伝統的な『ウイングの3つ組(三徴候)』ではなくて、2つの行動領域(1.社会的コミュニケーションおよび相互的関係性における持続的障害 2.興味関心の限定および反復的なこだわり行動・常同行動)の異常の有無や重症度によって評価される方向へと変わった。幼児期以降に自閉症スペクトラムの問題点や障害の存在に気づかれるケースもあるということが明記されており、DSM-5では自閉症を『幼児期に特有の発達障害』ではなく『どの年齢でも発症すること(発見されること)のある発達障害』として定義し直しています。
DSM-5における自閉症スペクトラム(ASD:Autism Spectrum Disorder)の診断基準 |
DSM-Ⅳまでは、ADHD(注意欠如・多動性障害)の診断を受けた患者は、自閉症・アスペルガー障害といった広汎性発達障害の診断を重複して受けることができず鑑別診断をすることになっていましたが、DSM-5では『自閉症スペクトラムとADHDとの重複診断(並存する状態)』を認めるという変更がなされています。
わかるようでやはり難しいです。
広汎性発達障害という概念では、『発達障害の人』と『発達障害ではない人』との特徴・言動・問題行動の有無の境界線が比較的明確なものになっていますが、自閉症スペクトラムという概念では『発達障害の人』と『発達障害ではない人』との間に明確な境界線を引かずに、健常者・軽症の自閉症者から重症の自閉症者まで連続的につながっていて、『症状の現れ方(特徴的な言動や態度の目立ちやすさ=症状・問題行動の重症度)』が違うだけなのだという前提にたっています。健常者でも多かれ少なかれ、わずかであっても『自閉症的な性格特性・言動や態度の特徴』を持っているということになります。いうなれば、『癖のある人・変わり者・話下手な人・自己中心的な人・自分の中にこもりやすい人』といったところでしょうか。
診断について述べてはきましたが、実際の当事者、子どもたちにとって何か変化があるのかと言うと何もかわらないと思います。家族については今までと異なる診断がつく可能性があります。もともと主治医がどの診断基準を採用しているかどうかにより診断が違うことが多いので、学校や家族同士での情報共有のなかで異なることが出てくるかもしれません。
どちらにしても、診断をもとに『その人をどう理解したか、理解するのか』『その人の手立てに何があるのか』ということを大事することには変わりはないということです。